私の死生観(概論雑記①)

たぶんきっと、私は他人に比べ、人の死に対してドライだ。

人の死に直面しても感情の起伏が少ないのだと思う。


それに気づいたのは中学1年の時。

同じクラスの男の子が交通事故で亡くなった。

登校すると、教師たちが彼の机やロッカーに残っていた置き用具を片付けていた。

そしてまもなく、彼の席の机上に白い菊をさした真っ白な花瓶が置かれる。

クラスに張り詰める言いようのない空気、漏れ伝わる交通事故死。

程なく、真っ青な顔をした担任教師が教室に入ってきて、事の経緯が伝えられた。

クラスメイトのすすり泣きは次第に嗚咽、号泣へとボリュームを上げた。

私の隣の席の女の子までもが声を上げて泣いている。

はて、彼女はそこまで亡くなった彼と親しかっただろうか。

なんなら関係を避けていた方ではなかっただろうか。

彼女だけではない。彼女同様、そこまで親しくなかった者達がわんわん泣いている。

これは一体どうしたことか。

一方、私は涙さえ出てこなかった。

亡くなった彼とは小学校も同じで、そこまで親しくつるんだことはなかったけど、

同じクラスになった事もあったし、何度も遊んだことがあったし、

中学ではエヴァの話で盛り上がることのできる数少ない同級生のひとりでもあった。

担任による事故の経緯を冷静に受け止めている自分を認知していたし、

亡くなったという事実は悲しかった。

だって彼は昨日までそこにいて、一緒に授業を受けて、

給食を食べていたクラスメイトだもの。

そんな彼が突然として「亡くなった」と告げられれば、悲しいのは当然だ。

だが、ついに涙は流れなかった。

そして腑に落ちなかったのは、この「死の報告」が終わって、

次の授業の準備にかかっているときに隣とその後ろの女子から投げかけられた

「泣いてなかったでしょ?」という言葉。

『集団心理』という腐った同調行動に対し、この頃には既にくだらなさを感じていたので、

彼女達の言葉の根源にあるものは察していたし、

だからといってムキになるには不利なので、適当なことを言って逃げた覚えがある。


なぜ涙が出なかったのか、思いを遡ることは難しい。

ぼんやりとした、あいまいな記憶を辿ってみるに、

小学4年生の頃には、図鑑を眺めながら遥か遠くの宇宙の果てを空想していたし、

小学6年生の頃には、自身の祖先、その遥か昔の人類の辿った歴史を想像していた。

あまりにも高遠な時空へ意識を巡らせていたことからなのだろうか、

ヒトが生まれ死ぬという事象はこの宇宙からすれば、極めて小さい事柄だということに

その頃には気づいてしまっていたし、生まれたものはやがて死ぬ、

という当たり前の事実について、感情というフィルターを通すことなく理解することが

それ故に可能であったともいえる。

幼少、そして思春期に浴びる情報熱波のようなものを人並みに受けてきたし、

いわゆる「一通りのこと」は過ごしてきたつもりでいる。

これらが理由となるのか、極めて煩雑ではあるが、他に思い当たるフシがない。


これが今に至る私の死生観になっているかどうかは分からないにせよ、

同居する祖父が心筋梗塞で急死したときも、

両親が立て続けに日本人三大疾病で緊急手術やら入院になったときも、

特に慌てることも取り乱すこともなかったし、

むしろ葬式の際のご導師の説法や術後の医師の説明は冷静に聴いていたし、

なんなら手術で切除した父親の肝臓を先生に目の前に持ってきて貰い、

動画を撮影しながら(母と妹は後ろでドン引きしていた)説明を受けていた人間なので、

たぶん、いや、やはり普通の人とは死や死に至るものへの感覚がズレているのである。


いまの私の死生観を見事に表現した言葉がある。

「死はいつもそばにいる」

アニメ「カウボーイビバップ」最終話に登場する台詞の一部だ。

詳細はググればすぐ出てくるので説明は譲りたい。

生まれたものはすべて確実に着実に「死」へと向かう。

必ず死ぬ。永遠に残るものなんて何もない。

森羅万象云々という仏教のお話をするつもりはないが、

要はみんな必ず死んでいくのだ。

それがいつなのか、そんなの誰にも分からない。

生まれた瞬間から「死」というものを意識せざるを得ないし、

生きることとは死ぬことと同義とする人もいるぐらいだ。

常に「死」と向き合っていくことが生きることだとも。

故に言葉とおり「死はいつもそばにいる」と意識して生きている。

だからこそ、人の「死」は自然の事象で、当たり前のことなのだ。

そこに涙を流すだけのエネルギーを要する悲しみを私は感じない。


では自らの「死」について、覚悟できているのか、と問われれば

若干の戸惑いはあるにせよ、「死」に至るその刹那、

少しでも思考できる瞬間があったなら「こんな人生も悪くはなかったなぁ」

なんて思いながら微笑んで逝けるのなら幸せだと思う。


締め括りに。

「死」というものについて、私にはただひとつ、経験していないことがある。

私は本当の「愛」とはどういうものなのか、いまだ答えには至っていない。

故に、愛する人との理不尽で唐突な死の別れを前にして

私は私を保持できるのであろうか、という事案である。


今月19日、東京・池袋で起きた自動車暴走運転による死傷事故で

突然に妻子を失った男性の悲しみと絶望は想像するに筆舌し難い。

もはや流す涙は流し切り、心はすっかり枯れた。

表情からはそのような状態が伺える。


きっとこの先、もしかしたら私にも「愛している」と言い合える、

永遠を誓った人に出会えるのかもしれないが、

その時には改めて、自分の死生観を観察して、その変化を表せたらなと思う。

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