この歳になっても、いまだ惑ってばかりである。
加齢による精神構造というものは物理法則に反してエントロピーは減少するものだと思っていたけれど、まったくもってそういうものでもないことがようやく理解しつつある。またその程度の理解で何が精神構造だと嘲笑されるべきものであることも否めない。とにもかくにも、おそらくは年齢不相応な生き方をしているものだから、落ち着きも平穏もあったものではない。そうしたなか、またこうして年の暮れ、誰に宛てたものでもなく、誰かに読んで欲しいからと書いているわけでもない、毎年恒例の納め文をしたためるものである。
今年の夏はとにかく暑かった。記憶のほとんどが「暑かった」という感情でストレージが埋まってしまっているぐらい暑かった。気候のせいにしたくはないけれど、暑いから気力も失われていたし、暑いから諦めることも多かったし、暑いからできないことも多かった。具体的にそれは何なのかと問われれば、そりゃ暑かったから思い出せない、という返答しかしようのないぐらい暑かったのだ。もう今年の夏のような暑さにはうんざりだ。でもきっと、この先の地球さんはもっともっと暑く熱くなっていくのであろう。不穏当だ。
仕事にせよ、私事にせよ、こうも暑けりゃ思うようにもいかない。なによりも、今年は充実というものを感じることのない一年だったと思う。なにせ、そもそも気力が失われているのだから、向上心とか成長とか自主性とか、そういう暑苦しいものすらお断りな、長い長い夏季が私をひどく醜いものへと蝕んで、仕事で赴いた現場の写真を見返しても、達成感と充実感を得られた現場は無かったし、プライベートでも金欠のなかで生きることに幸せなんて感じないし、当然ながら他者への憧憬が嫉妬へと変化する苦しみの中で、なんら人の温もりを感じることなく生きていることの地獄的なこの境遇において、どうしたら自分から進んで前進しようとする思いに至ることができるのか教えてほしいものだ。年末にこういう心情になっている時点で、もう死期は近いのか。そんなことすら感じてしまう。土台が不安定になれば、その上部にあるすべてのものが崩壊することは極めて正確な物理法則である。
今年は、僕のことを「戦友」と呼んでくれた友達を亡くした。直接会ったことはないけれど、チャットや通話を介して親しくしてくれた人物だった。生まれた場所も、過ごしてきた場所も、住んでいる場所も、お互い全く接点のない関係だったけれども「応援している声優さんが同じ」という特異点で偶然にも邂逅したのだ。しかも同じ歳だということも分かり、これまで苦しみながらも生き永らえてきた互いの存在を自然と尊敬しあい、親しい間柄になったことは何も不思議ではない。きっと彼はそういう意味を込めて「戦友」と呼んでくれたのであろう。僕らの生まれた時代は、まったく自慢できないぐらい厳しい境遇であって、その中で生きてきたことを互いに健闘しあうことは当たり前のような流れであったといえる。もっともっといろんなことを語らいあいたかった。直接会って酒を交わしながら話したかった。なにがどうなって死んだのか、その一切は不明のままだが、半ばアウトローで合法的な生き方をしてきた様子は感じていたので、その瞬間を察しながら、最後まで自分というものを明確に保持したまま、若干の未練と、さっさとアガリを決め込める幸福のなか、激しく己を燃やしながら死んでいったのではないかと勝手に思っている。正直言って羨ましい。この国がまだ平穏無事であるなか、その死を見送り、葬送されることのできるうちに死ぬことができたことを羨ましく思う。
当たり前にあることが当たり前に存在していると思うな。僕は常にそれを自分に言い聞かせている。だからなのか、この歳になっても、世界が突然として崩壊することを望んでいる。幸せを追求したい気持ち、他人の幸せを祈りたい気持ちが、この心の中にはしっかりと存在しているのに、それらすべてが瓦解して、何もかも失って、ゼロどころかマイナスからすべてを始めなければならない世界に希望を見出している。この感覚を理解できないことが正しいのであって、僕はもう根本から間違っていることも理解している。
お金がすべてではないと言う人がある。そんな人はぜひとも手持ちの財産すべてを僕に譲渡していただきたい。それでも足らないだろうから借金でもして、控えめに税金込みで10億円ぐらい僕にくれないだろうか。結局のところ、お金がなければ何もできないのである。お金があればあるほど、心に余裕が生まれる。心に余裕があるから、前向きに生きることができる。前向きに生きることができるから何かを達成したいという欲望が生まれる。欲望があるからもっともっと生きたいと思う。うまい具合に加速できる状態に乗れば、努力するなどと口にしなくとも、自ずとうまい具合になるよう身体が動くようになっているのだ。それすらできないのだから、だから「ままならない」と論じているのであって、本論は序論に再び戻るのである。
昨年の納め文で記した、抱負みたいなもの、その進捗について論じておきたい。
先に述べた通り、今年はうまくいかない一年であった、ということを言い訳にして、苦難を乗り越えることも、前進することもできなかった。せっかく頂いたチャンスすらも、その後になんら形にもできず、極めて中途半端で、どうしようもなく怠惰であったと思う。極めて残念だ。そもそも、熱心に取り組めるような環境にもない。それを言い訳にしてすべてを捨て去ることはとてもとても簡単なことである。けど、もったいないという感情は物凄く明快に心の中に存在していて、このパトスが失われない限りは、進めようと思っている。そもそもそれがあるからこそ、きっとこうして文章を書いている。命が尽きるのが先か、生活の土台が崩壊するのが先か、何かを成し得ることができるのが先か。それも自然と出来上がってくるものであろうとは思っている。気負わずにいきたい。もうそれしかできないし、それしか述べることができない。なにせ、こうして一年が過ぎ去ったのだから。
毎年のように、具体的な表現を避け、ふわっとしたことを書くのがこの納め文だ。ふわっとした文章であればあるほど、その一年がとるに足らない一年であったということを物語っている。大みそかにではなく12月30日にこれを記していることも例年とは違う行動である。もう、さっさと新年になってしまえ!という感情が溢れてしまっている。なんだ、やっぱり頑張って生きようとしてるんじゃん。
あとは、やはり「どれだけ足跡を残せるか」なんだよね。僕の戦友は見事にその足跡を残していきやがった。カッコいい奴だ。惚れちまうぜ。僕はどれだけ残せるのかな。まぁ、せいぜい頑張るさ。
今年も無事に新年を迎えることができることに感謝と喜びを。
来年は今年よりも良い年になりますように。
ここまで読んでくれたあなたに、最大限の感謝を!
心よりご多幸を祈ります。
来たる年もよろしくお願いします!!!
0コメント