20210505所感

もう10年前の話である。

小学校の頃からの友人が突然、この世を去った。


その報せは共通の友人からもたらされた。

なんとも遠回りな伝達経路なのだが、彼の父親は死んだ友人と同じ某自動車メーカーのグループ企業に勤めていたらしく、何千人?もいる従業員の誰かが亡くなると掲示板だか何かに貼り出されるらしい。伝聞でしかなく記憶も曖昧で正確なことは言えないが、父親からその報せを聞いた彼は、その夜、言葉を詰まらせながら私に電話をくれたのである。

その段階で本当にその友人なのか私自身の中で真偽を計りかねていたので、私はその友人の携帯に電話をかけた。

何かの間違いであってほしい。いや、きっと間違いなのだ。

長い長いコールのあと、その友人とは異なる声の持ち主が電話口に現れたので、その瞬間、私の一方的な軽々なる願望は蒸散し、ああ、やはりそうなのか、不思議に明瞭な理解と意識が私を支配した。

電話に出たのはその友人のお兄さんであった。

何を話したのか、今やもうほとんど覚えてはいない。

二度とこういった場面に出くわすことはないだろうし、出くわしたくもない。どんな言葉を選択するのが正解なのかも分からないし、あの時どんな言葉を発したのか全く覚えていない。少なくとも、亡くなった状況、葬儀の場所と日時を聞いて電話を切ったんだと思う。

すぐさま報せをくれた友人に電話でその旨を伝えると、東京に住む彼は翌日こちらへ帰省。

ともに通夜に参列し、その友人の死に顔と対面することとなる。


私と報せをくれた友人、そして死んだ友人は同じ小中学校で、特に中学では同じ部活動に所属しており、親密な時間を過ごす間柄であったし、中学を卒業してからも機会を見つけては会う仲であった。

死んだその友人は高校卒業後、地元の某最大手自動車メーカーに就職。

さらっと言うようだが、実はこれはすごいことで、うまく仕事をこなして、会社も順調に成長していけば、あっという間に預金は貯まるし、老後も安泰が約束されたようなものである。まして彼は入社時から独身寮に入居していたため、家賃や生活費がほとんど発生しない。寮から勤務先まではシャトルバスで通勤できて車も必要ない。

地元ではこうした人を自工さんと呼び、尊敬とも羨みとも侮蔑とも混ぜ合わせた社会階級を無意識下で醸成する。

当時も今も私はどうしようもなくだらし無い生き方しかしていないので、機会を見ては彼の住む寮に遊びに行き、なんとも快適そうな生活ぶりに、彼が本当に羨ましく思ったし、自分の情けなさを恥じるばかりであった。

順調そうな彼の生活であったが、5年6年と経てば心境に変化が生じるのは当然のこととはいえ、ある日、彼から「会社から休むように言われた」と連絡があった。

どういった経緯があったのか、彼自身、自分の内面を積極的に吐露するような人物ではなかったので、どうにか聞き出したのが「心療内科に通っている」ということであり、お医者さんや会社からは「心身の状態が改善するまでゆっくり休養して、また一緒に仕事をしてほしい」というような内容の申し送りがあった、ということぐらい。

その頃の私には精神的な病への知識も認識も乏しく、表面上は穏やかでなにか悩んでいるような素振りも見せない、至って平常通りな彼の様子にかけるべき模範解答を持ち合わせてはおらず、きっと「病院の先生がそういうなら、ゆっくりと治していけばいいんじゃないか」なんて言葉を安易にかけたのだと思う。

当時は今のようなSNSは大きく普及しておらず、連絡は専ら、いわゆるガラケーでのメールでのやり取りであった。週に1回あるかないかぐらいの頻度であったか、メールでの近況報告は行い合っていたとはいえ、彼の休業期間がどれだけであったのか、具体的にどう過ごしているのか、メールの文面上から察することは、きっと今振り返っても難しかったのではないかと思うし、もう少し踏み込んでいれば、なにか違う展望があったのかと問われれば、やはり難しかったのではないかと、半ば防御的に今は解釈している。


5月の連休期間に実家に帰った彼は、処方されていた睡眠薬を多量に摂取、今から10年前の5月5日朝、心肺停止の状態でベッドに横たわっているのを家族が発見したそうだ。

通夜が終わったあと、彼の親御さんから、そう聞かされた。

家族席には離婚した彼のご両親とお姉さん、お兄さんと妻子、親戚席には数名の老いた方々、友人・関係者席には私と急遽帰省した友人の二人のみ。

祭壇には、あの有名自動車メーカーの社長様の名前が掲げられた花。

なんとも寂しいものだ。


彼の死んだ状況といい、彼の家族関係といい、その特殊性を帯びた状態は何とも言い難く、通夜のあと、少しだけご両親とお兄さんとお話する時間を頂いたのだが、「独身寮の部屋は一切を片付けた」「遺書のようなものはケータイに残されていた」といった断片的な情報を得られたものの、私の彷徨う茫漠とした感情をすくってくれる何かを掴むことは出来ず、お母様からの「しっかりと生きてね」という重たい言葉だけを投げつけられたかのような気分のまま会場をあとにして、そうして、その後の法要などの連絡や案内も一切なく、仏様になった彼に手を合わせることの出来ぬまま、とうとう今日、10年が経ってしまった。


たぶん、きっと、彼はやさしすぎたのだと思う。

本当に、いつも穏やかな、やさしい顔をしていた。

どんなに苦しくても、嫌なことでも、平気な表情のまま、無理をし続けた。

親しいはずの私に、なんでもっと素直な思いを伝えてくれなかったのか。

なんで私はもっと彼に寄り添ってあげることができなかったのか。

私は一生、この思いを背負って、そうして苦しみながら死んでいく覚悟はできている。

叶うことなら、一度でいいから仏前で手を合わせたいし、不詳のままとなっている真理が私にその資格がないと裁いているのならば、それはそれで仕方ない。


だからなのだろう。

私は彼の死を知った瞬間から今に至るまで、彼を想って涙を流せずにいる。

わからない。

私はもしや、いまだに彼の死を受け入れてはいないのではないのか。

ぬるま湯に浸かった人生を寝そべりながら老いへと死へと進む私に、もう救いはないのかもしれない。

そうか。

そうか。

生きることって、真剣に考えると、辛くて辛くてたまらない。

自分自身も5年前に適応障害の診断を受けていたことをすっかり忘れていた。


うん。

死へは着実に進んでいるのかもしれないが、もう少しだけ生きようと思う。



今日は彼の命日なので、ふと筆を起こそうと思った。

東京に住む友人にはこの文書の公開について事前に連絡もしていないが、きっと赦してくれると思うので、何か申立があったら編集するなり削除するとしよう。

きっと彼もこの10年、様々なことがあっただろうし、様々な思いとともに生きてきたと思う。

コロナ禍でなかなか帰省できないし、私もコミケという東京に行く大義名分(?)がないので、彼とはかれこれ1年以上会っていない。

語らいたいこともたくさんあるだろう。

私は東京に行った時ぐらいしかお酒を飲まないので、東京の美味しいお店でプレモル飲みながら語らい合いたいものだね。

以上、乱筆乱文失礼しました。

0コメント

  • 1000 / 1000

高橋キノエネのーと

Twitterの限られた文字数では伝えきれないこと、言いたいことを気ままに述べていく個人ブログです。