20240405所感

 日本は絶えず自然災害と向き合わなければならない国である。どれだけ心掛けて日常生活を暮らすべく努力しようとも、人知を超えた圧倒的なパワーをもって大自然は我々を蹂躙する。その被害を軽減することは出来ても、完全にその因果からは逃げることは出来ない。

 今から13年前、東日本の大地を大きく揺らした大震災があった。東日本大震災である。かつてないエネルギーを持ったその地震は大規模で広範囲に被害をもたらし、更には大津波を発生させ、太平洋側の沿岸部を中心に真っ黒で巨大な波が押し寄せ、すべてを飲み込み、すべてを押し流し、すべてを奪っていった。津波に襲われた原子力発電所は電源を失い、メルトダウンという重大事故も起きた。

 実に多くの人々の身体も心も傷つけ、実に多くの人々の命を奪い去っていった。

 映画「すずめの戸締まり」は、あの震災で亡くなった人々を悼む作品である。そして、あの時を生きていたすべての人々にいまだシコリのように残る心の痛みを緩やかに癒す作品でもある。

 人々の記憶から失われた場所にあらわれる「後ろ戸」。列島の地下を蠢く「ミミズ」がその扉から飛び出し、地表にその身体を倒すことで現実世界に大きな地震となって大地を揺らす。後ろ戸もミミズも人々には見えない。そのミミズによる災いを食い止めるため、草太は「閉じ師」として日本各地を歩く。ミミズを封じるために存在していた「要石(かなめいし)」を鈴芽が抜いてしまったことから本作はその激動を開始する。

 新海監督は本作を「鈴芽と草太(椅子)が日本各地を移動するロードムービー」と紹介する。その移動する行き先、ついには我々の13年前の記憶を呼び起こすべく、福島、宮城、岩手に達する。

 要石であったダイジンの代わりに要石となった草太を鈴芽が救うと決意したとき、彼女はその生命の保証はないと分かったうえで「生きるか死ぬかなんてただの運なんだって、小さい頃から思ってきた。」と言い切る。これが彼女の死生観であり、あの震災を直接なり間接なり経験した者が触れたことのある感覚ではなかろうか。誰にも等しく降りかかる災い。「運」という言葉で軽々しく生死を左右して良いはずもない。だがあの日、大きな揺れ、大きな波を襲った場所でその運命を左右したのは何であったのか。

 旅の果て、鈴芽が開くことのできる扉から常世へと赴き、遂には草太を要石の眠りから解き放つ。後ろ戸から今にも飛び出そうとするミミズを食い止めるサダイジンに草太は柏手を打つ。すると鈴芽の眼下には、かつてその場所にあった人々の暮らしが、「いってきます」「いってらっしゃい」の声がたくさん浮かび上がる。だが「ただいま」「おかえりなさい」の声が無い。そう、あの大震災で、交わすはずだった声たちはすべて奪われたのだ。

 草太は発する。「命がかりそめだとは知っています 。死は常に隣にあると分かっています 。それでも いま一年、いま一日、いまもう一時(いっとき)だけでも、私たちは永らえたい!」分かっている。これはいまを生きている、あの日、生かされた人々のエゴなのだと。かれども、我々は生きるしかない。亡くなった人々のためかもしれない。自分自身のためだけなのかもしれない。それでも!我々は生き続けたい!その願い、あの日、奪われた命との誓い。そういった想いすら感じる言葉である。

 この作品が東日本大震災への追悼をテーマにした作品であると述べた。もちろん、事象のすべてを投影したものではない。だが、あの日の記憶というものを映画作品という形で表現した新海監督に対して敬意を表する。過去にあった苦しい思い出をエンタメに昇華させ、アニメーションとして表現した功績は素晴らしいものと言えよう。もちろん、すべての人が共感するものではない。

 今宵、地上波初放送に寄せて、大雑把だが思っていることを書いてみた。多くの人々にこの作品が届いたのならば、新海監督のファンとして私は嬉しく思う。

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